シャコの超次元的視覚ががん手術を革新する:生物模倣マルチモーダル・イメージング技術の全貌

ジャーナル
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著:津川 友介, 著:勝俣 範之, 著:大須賀 覚
¥1,833 (2025/11/05 12:21時点 | Amazon調べ)

ラジオ風動画です。(25/11/5 20時以降から閲覧可能です。)

シャコの目ががん手術の未来を変える!偏光とAIで「見えない敵」の浸潤度をリアルタイム可視化
水棲生体に関連するトピックスを取り上げ記事作成、AIをつかったラジオ風音声を投稿しております。■ コンテンツの特徴音声メインのラジオ形式: 解説のスライドや関連画像と共にお届けします。映像は補助的なものですので、ぜひ音声メインでお楽しみくだ...
  1. I. 総論:海洋生物学と外科腫瘍学の融合
    1. A. 序論:2024年のブレイクスルーと外科医の古くからの課題
    2. B. 核心的誤解の修正:国際共同研究の全体像
    3. C. 提示されるソリューション:「見る」のではなく「解読する」カメラ
  2. II. 生物学的設計図:シャコ(Mantis Shrimp)の超次元的視覚
    1. A. 12チャネルの色覚:スピードのための「認識」
    2. B. 偏光チャンネル:「秘密」のコミュニケーション言語
    3. C. 生物学的メカニズム:眼球内の「1/4波長板」
  3. III. 腫瘍の光学的シグネチャ:がんは「光の捻れ」で識別される
    1. A. 偏光と生体組織:コラーゲンの「複屈折性」
    2. B. がん化による構造破壊:「複屈折性」の喪失
  4. IV. 工学的実装:シャコの目をCMOSセンサー上で再現する
    1. A. 比較分析:生物学的設計図から工学的ソリューションへ
    2. B. Gruev教授のコア技術 (1):積層型フォトディテクター(多波長・NIR対応)
    3. C. Gruev教授のコア技術 (2):Division-of-Focal-Plane(DoFP)偏光フィルター
  5. V. 臨床応用:手術室を照らす「第3の目」
    1. A. マルチモーダル・イメージング:2つの「目」を融合する
    2. B. 臨床シナリオ:外科医は「何」を見るのか
  6. VI. 開発状況と未来展望:2024年の検証から次世代センサーへ
    1. A. 2024年のマイルストーンと臨床試験
    2. B. AIの統合:2025年の画像処理の進化
    3. C. 次世代の生物模倣:シャコから蝶、そしてペロブスカイトへ
    4. D. 結論的洞察:生物模倣は「ツールキット」である

I. 総論:海洋生物学と外科腫瘍学の融合

A. 序論:2024年のブレイクスルーと外科医の古くからの課題

2024年秋、米国の光学・フォトニクス専門誌『Photonics Focus』は、「シャコ:海の捕食者から光学的なインスピレーションへ」と題した特集記事を掲載し、生物模倣技術の新たな地平を報じました。この記事が浮き彫りにしたのは、海洋生物学の基礎研究が、現代医療における最も困難な課題の一つである「がんの外科的切除」を根本から変革する可能性です。

外科腫瘍学(Surgical Oncology)において、医師が直面する根本的な課題は、手術中に「どこまでががんで、どこからが正常な組織か」という境界線を正確に特定することです。数世紀にわたり、この判断は執刀医の肉眼による視覚と指先による触覚という、人間の感覚に大きく依存してきました。このアプローチは、特に微小な浸潤がんや、周囲の組織と物理的特性が似ている腫瘍において限界があります。

その結果生じるのが、「切除断端陽性(Positive Surgical Margin)」、すなわち切除した組織の縁にがん細胞が残存する問題です。これは、がんの局所再発の最大の危険因子であり、患者は追加の切除手術や、より侵襲的な放射線治療・化学療法を余儀なくされます。この外科医の「見る」能力の限界こそが、がん治療の予後を左右する核心的な障壁であり続けてきました。

B. 核心的誤解の修正:国際共同研究の全体像

2024年の報道は、この技術をオーストラリアの研究として紹介する傾向がありましたが、それは物語の半分に過ぎません。この技術的ブレイクスルーは、実際には二つの大陸にまたがり、数十年にわたって続けられてきた学際的な国際共同研究の集大成です。

この物語は、以下の二つの主要な研究グループによって牽引されてきました。

  • 生物学的基礎(オーストラリア): クイーンズランド大学(UQ)クイーンズランド脳研究所(QBI)のジャスティン・マーシャル(Justin Marshall)教授の研究チームです。マーシャル教授は、シャコ(Mantis Shrimp, 学名:Stomatopod)の視覚システムの生物物理学、特に「偏光」という特殊な光をどのように見て、利用しているかの謎を解明した、この分野の世界的権威です。
  • 工学的実装(米国): イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校(UIUC)のヴィクター・グルエフ(Viktor Gruev)教授(元セントルイス・ワシントン大学)が率いる工学研究チームです。グルエフ教授のチームは、マーシャル教授らによる生物学的発見を、実際の手術室の内視鏡や顕微鏡に搭載可能な、指先サイズのCMOSイメージセンサーへと工学的に「翻訳」する役割を担いました。

この連携は、マーシャル教授自身が語るように、「人類のために役立つことを見つけるためではなく、単に自然界の不思議に魅了されたから」行った好奇心に基づく基礎研究(Curiosity-Driven Research)が、いかにして予期せぬ、そして人命を救う可能性のある実用的な応用へと発展するかを示す、生物模倣(Biomimetics)の模範的な事例となっています。

C. 提示されるソリューション:「見る」のではなく「解読する」カメラ

この共同研究によって開発された特殊カメラは、単にがんを「光らせる」だけのものではありません。それは、人間の目には全く見えない光の複数の物理的特性を、同時に、リアルタイムで解読する「マルチモーダル・イメージング・センサー」と呼ぶべきものです。

この単一のセンサーは、人間の視覚が捉えられない、以下の3つの重要な情報チャネルを同時に取得します。

  • ハイパースペクトル(多波長): 人間の3原色(赤・緑・青)を遥かに超え、可視光から近赤外(Near-Infrared, NIR)線に至るまでの複数の波長帯(例えば6チャネルの「ヘキサクロマティック」)を捉えます。
  • 蛍光 (Fluorescence): がん細胞に特異的に結合するよう設計された「分子プローブ」(蛍光色素)が、NIRの光を浴びて発する微弱な「光」を検出します。これは、がんの「分子的存在」を示します。
  • 偏光 (Polarization): 光が波として振動する「向き」の情報、特にシャコだけが見ることができる「円偏光」を含む、組織構造によって変化させられた偏光状態を検出します。これは、がんの「物理的構造」を示します。

本レポートの主題は、この工学的飛躍が、シャコの視覚システムを単に「模倣」した点にあるのではなく、その生物学的構造から得られた設計思想(積層型センサーや偏光検知)を、臨床現場の既存のニーズ(解剖学的構造を見るためのRGBカラーと、がん細胞を特定するためのNIR蛍光イメージング)と「選択的に統合」した点にあることを明らかにします。

シャコは12色以上の色覚を持ちますが、工学チームはそれをそのままコピーしませんでした。彼らは、外科医が手術室で必要とする情報、すなわち「RGB(周囲の正常な解剖学的構造の確認)」と「NIR(蛍光色素の検出)」を選択し、そこにシャコの最もユニークな能力である「偏光検出(組織構造の異常検知)」を、単一のCMOSチップ上に統合しました。この複数の物理現象を、内視鏡や顕微鏡に搭載可能なほど小型の単一センサーでリアルタイム処理できる「ハイブリッド・ソリューション」の開発こそが、この技術の真の核心です。

このセンサーは、外科医に対し、従来は手術室の病理検査室からの報告を待つしかなかった情報をリアルタイムで提示し、前例のない「術中のセカンド・オピニオン」を提供する可能性を秘めています。

II. 生物学的設計図:シャコ(Mantis Shrimp)の超次元的視覚

この工学的ブレイクスルーの設計図は、地球上で最も複雑な視覚システムを持つ生物、シャコ(Stomatopod)にあります。

A. 12チャネルの色覚:スピードのための「認識」

人間の色覚は、赤・緑・青(RGB)の3種類の錐体細胞が網膜上に配置され、これらの細胞が異なる波長の光に対してどの程度強く反応したかを、脳が比較・処理することで、数百万色を「弁別(Discrimination)」する能力に優れています。

一方、シャコは、ディープUV(紫外線)から遠赤色(Far-Red)まで、実に12種類以上(種によっては16種類とも)の異なる色受容体を持っています。当初、この発見は、シャコが人間とは比較にならない超高精細な色覚世界に生きていることを示唆すると考えられました。

しかし、クイーンズランド大学(UQ)のマーシャル教授らの研究チームが行った行動実験は、驚くべき事実を明らかにしました。シャコの色「弁別」能力(Δλ機能、すなわち2つの異なる波長を見分ける能力)は、12チャネルも持ちながら、人間の3チャネルよりも遥かに劣っていたのです。

この逆説的な事実は、シャコが人間とは根本的に異なる色覚システムを採用していることを示しています。シャコは、脳で複雑な比較処理を行う(弁別する)代わりに、12チャネルの受容体からの入力パターンを、脳内の処理センターで直接「認識(Recognition)」していると考えられています。これは、サンゴ礁という極めてカラフルで複雑な環境において、捕食や縄張り争いといった一瞬の判断が求められる場面で、小さな脳のリソース(シャコの脳は非常に小さい)で超高速の意思決定を行うための、ユニークな進化的適応であると結論付けられています。

B. 偏光チャンネル:「秘密」のコミュニケーション言語

シャコの視覚の真の特異性は、色覚以上に「偏光」の知覚能力にあります。偏光とは、光の波が特定の方向にのみ振動している状態を指します。人間の目はこれをほとんど知覚できませんが(偏光サングラスを通して「眩しさ」として認識する程度)、昆虫や甲殻類を含む多くの無脊椎動物は、ナビゲーションや物体の識別に「直線偏光」(一方向に振動する光)を利用しています。

しかし、マーシャル教授らの研究は、一部のシャコの種(例:Gonodactylaceus falcatus)が、自然界で唯一、「円偏光(Circularly Polarized Light, CPL)」を知覚できる生物であることを突き止めました。円偏光とは、光の波が進行方向に対して螺旋状に「右巻き」または「左巻き」に回転している状態です。

さらに、シャコはCPLを「見る」だけでなく、自らの体の一部(特に尾や付属肢)にある特殊な構造でCPLを反射させ、それを積極的に「利用」していることも実証されました。このCPLは、他のほとんどの生物(特にシャコの捕食者である脊椎動物)には見ることができないため、交配相手への求愛シグナルや、ライバルへの威嚇といった、傍受されることのない「秘密のコミュニケーション・チャネル」として機能していると考えられています。

C. 生物学的メカニズム:眼球内の「1/4波長板」

シャコは、どのようにしてこの物理学的に難解な円偏光を検出しているのでしょうか。その秘密は、眼球の構造にあります。

シャコの複眼は、上(Dorsal)半球と下(Ventral)半球、そしてその間を走る「ミッドバンド」と呼ばれる6列の特殊な個眼(Ommatidia)で構成されています。このミッドバンドの1列目から4列目が12チャネルの色覚を担い、5列目と6列目が偏光視覚(特に直線偏光と円偏光)を専門に担っています。

工学的なインスピレーションの源泉となった核心的メカニズムは、この5列目と6列目に存在する、R8と呼ばれる受容細胞の内部構造にあります。通常、光受容体は光を電気信号に変換するだけですが、シャコのR8細胞は、その内部にある微絨毛(Microvilli)の脂質膜が、光学的に完璧な精度で配列しています。

この生物学的ナノ構造が、物理的な光学部品である「1/4波長板(Quarter-Wave Retarder)」として機能することが突き止められました。1/4波長板とは、入射した円偏光を、90度位相をずらして直線偏光に変換する光学フィルターです。

シャコの目では、以下のプロセスが発生しています:

  • 「円偏光」がR8細胞に入射します。
  • R8細胞(1/4波長板)が、円偏光を「直線偏光」に変換します。
  • 変換された直線偏光は、R8細胞の直下にあるR1~R7受容細胞(これらは直線偏光に敏感)によって検出されます。

これは、シャコの目が単なる受動的な「センサー」ではなく、光の物理状態そのものを変換する能動的な「光学プロセッサ」であることを意味します。この「センサー上での事前処理(On-Sensor Processing)」という生物学的設計思想こそが、グルエフ教授の工学チームがCMOSセンサー上で再現しようとした、直接的なインスピレーションとなりました。

III. 腫瘍の光学的シグネチャ:がんは「光の捻れ」で識別される

シャコが「円偏光」という秘密の言語を使うことが、なぜ、がんの発見につながるのでしょうか。その答えは、がん組織が正常組織とは根本的に異なる「光学的シグネチャ(特徴)」、特に偏光特性を持つという、近年の発見にあります。

A. 偏光と生体組織:コラーゲンの「複屈折性」

偏光イメージングが医療診断に有効である生物物理学的な根拠は、生体組織、特に間質(Stroma)を構成する主成分であるコラーゲン線維の物理的特性にあります。

健康な乳房組織や皮膚などの結合組織では、コラーゲン線維は高度に整列したマトリックス構造(束)を形成しています。このように一方向に揃った異方性(Anisotropic)の構造は、「形態複屈折(Birefringence)」と呼ばれる光学特性を示します。複屈折とは、物質を通過する光の偏光状態(波の振動方向)が、その構造の「軸」に沿って変化する(捻られる)性質を指します。

簡単に言えば、健康で整然としたコラーゲンリッチな組織に偏光(例えば直線偏光)を入射させると、透過または反射した光は、その偏光状態が変化して(捻れて)戻ってきます。

B. がん化による構造破壊:「複屈折性」の喪失

この秩序ある状態は、がん細胞が浸潤を開始すると劇的に変化します。腫瘍、特に浸潤性乳管癌(Invasive Ductal Carcinoma, IDC)のような悪性度の高いがん細胞は、増殖・浸潤の過程で、周囲の腫瘍微小環境(Tumor Microenvironment, TME)を積極的に再構築(破壊)します。

がん細胞は、プロテアーゼなどの酵素を放出し、それまで整然と並んでいたコラーゲンマトリックスを文字通り破壊し、断片化させ、最終的には無秩序な細胞の集合体で置き換えていきます。

組織の構造的秩序が失われ、ランダム(等方性、Isotropic)になると、組織は「複屈折性」を喪失します。

したがって、偏光カメラ(ポラリメータ)で組織を観察すると、明確な光学的コントラストが生まれます。

  • 正常な間質組織(高秩序・高コラーゲン): 光の偏光を強く変化させる(=高複屈折性を示す)。
  • 浸潤がん組織(低秩序・低コラーゲン): 光の偏光をほとんど変化させない(=低複屈折性を示す)。

この「複屈折性の喪失」というシグネチャは、がん細胞の存在そのものよりも、がんの「悪性度」や「浸潤性」を直接反映する強力なバイオマーカーとなります。

この原理は、一見すると限界のようにも見えますが、実は外科医にとって最も重要な情報を提供します。研究によると、非浸潤性乳管癌(Ductal Carcinoma in Situ, DCIS)、すなわち、がん細胞が乳管内に留まっている初期のがん(ステージ0)の場合、がん細胞は周囲のコラーゲン構造をまだ破壊していません。その結果、DCISの周囲の組織は、高い複屈折性を維持したままとなります。

これは、偏光イメージングが、単に「がん細胞の存在」を検出するのではなく、がんの挙動、すなわち「浸潤性」を検出するマーカーであることを意味します。外科医にとって、切除すべき「浸潤の境界線」がどこにあるかを正確に知ることは、乳房温存手術(BCT)の成否を分ける決定的な情報です。この偏光シグネチャは、まさにその「悪性度の境界線」を可視化する能力を提供します。この「構造的」情報こそが、次章で述べる「分子的」情報(蛍光)と組み合わせることで、この技術の真価を発揮させる鍵となります。

IV. 工学的実装:シャコの目をCMOSセンサー上で再現する

生物学的な設計図(II章)と、医学的なターゲット(III章)が揃ったことで、ヴィクター・グルエフ教授の工学チームは、これらを単一のシリコンチップ上に実装する課題に取り組みました。

A. 比較分析:生物学的設計図から工学的ソリューションへ

この工学的飛躍の核心を理解するために、ヒト、シャコ、そして開発された生物模倣センサーの能力を比較した以下の表(表1)が有効です。

特徴 (Feature) ヒトの視覚 (Human Vision) シャコの視覚 (Mantis Shrimp Vision) Gruev Lab 生物模倣センサー (UIUC Biomimetic Sensor)
色覚(受容体) 3チャネル (RGB) 12チャネル以上 (UV含む) 6チャネル (ヘキサクロマティック:可視光+NIR)
偏光検知 ほぼ無し(サングラスが必要) 直線偏光 および 円偏光 直線偏光(+円偏光の特性計算)
主要メカニズム 網膜上の単層の錐体・桿体 積層型受容体、R8細胞(1/4波長板として機能) 積層型フォトディテクター、ナノワイヤ偏光フィルター
臨床的応用 肉眼(限界あり) 組織構造(偏光)と分子情報(蛍光)のリアルタイム可視化

この表が示す通り、開発されたセンサーはシャコの完全なレプリカではなく、臨床的ニーズに基づいた「選択的ハイブリッド」です。

B. Gruev教授のコア技術 (1):積層型フォトディテクター(多波長・NIR対応)

私たちが日常的に使用するスマートフォンやデジタルカメラのCMOSセンサーは、「カラーフィルター・モザイク」方式を採用しています。これは、単層のセンサーアレイの上に、赤・緑・青の微細なフィルターをチェッカーボード状に配置するものです。この方式の根本的な欠点は、各ピクセルが入射光の約3分の2をフィルターによって遮断・損失してしまうため、感度が低いことです。

グルエフ教授のチームは、シャコの網膜が複数の受容体を垂直に「積層」している構造にヒントを得て、このカラーフィルターを排除しました。代わりに、CMOSセンサーの材料であるシリコン(Si)そのものの物理的特性を利用しました。

動作原理: 光は、その波長(色)によってシリコン内部に侵入する深さが異なります。

  • 波長の短い青色(Blue)の光は、シリコンの浅い層で吸収されます。
  • 波長の長い赤色(Red)近赤外線(NIR)の光は、より深い層まで透過して吸収されます。

グルエフ教授のチームは、単一のピクセル内の異なる深さに、複数のフォトディテクター(受光素子)を垂直に積層しました。これにより、1つのピクセルが、どの深さでどれだけの光が吸収されたかを同時に読み出すことができます。

利点: この「積層型フォトディテクター」技術により、2つの大きな利点が生まれます。

  • 高感度: フィルターによる光の損失が一切なくなるため、従来のセンサーよりも遥かに高感度になります。これは、手術室の強い照明下で、がん細胞が発する微弱なNIR蛍光シグナルを捉えるために不可欠な特性です。
  • 多波長: フィルターに縛られないため、単一ピクセルでRGB(解剖学用)とNIR(蛍光用)を含む複数の波長情報(例:6チャネルの「ヘキサクロマティック」)を同時に取得できます。

C. Gruev教授のコア技術 (2):Division-of-Focal-Plane(DoFP)偏光フィルター

次に、チームはシャコのR8細胞(1/4波長板)の機能を工学的に実装する必要がありました。彼らは、積層型センサーアレイの最上層に、アルミニウム・ナノワイヤ・フィルターをモノリシックに(半導体製造プロセス内で一体的に)集積しました。

動作原理: このナノワイヤは、金属の格子が特定の向きの直線偏光のみを通過させる「ワイヤグリッド偏光子」として機能します。

これらのナノワイヤ・フィルターは、ピクセルごとに異なる角度(例:0°, 45°, 90°, 135°)で、チェッカーボード状に精密に配置されます。この配置は「Division-of-Focal-Plane (DoFP)」または「焦点面分割」技術と呼ばれます。

カメラの画像処理ユニットは、隣り合うピクセル群(例:2×2のピクセルブロック)が捉えた光の強度差を瞬時に比較計算します。これにより、その領域の光がどのような偏光状態(直線偏光か、またその角度や強さ、さらには円偏光の特性)にあるかを、スナップショットで(瞬時に)算出することができます。

利点: 従来の高性能な偏光カメラは、物理的なフィルターホイールをモーターで回転させて複数の偏光画像を取得していました。この方式は時間がかかり(リアルタイム性に欠け)、可動部品があるため大型化し、手術中の手の動きや臓器の拍動によるモーションブラー(動きのブレ)に弱いという致命的な欠点がありました。グルエフ教授のDoFP設計は、可動部品を一切なくし、ワンショットですべての偏光情報を取得するため、小型かつ堅牢で、真のリアルタイム偏光イメージングを可能にしました。

この2つのコア技術の融合、すなわち「高感度な積層型センサー(Tech 1)」と「高速なDoFP偏光フィルター(Tech 2)」の組み合わせは、手術室での臨床使用に不可欠な2つの要求、すなわち「微弱な蛍光を見る感度」と「動きながら見るリアルタイム性」を、シャコという単一の生物学的設計思想から同時に解決する、画期的な工学的達成でした。

V. 臨床応用:手術室を照らす「第3の目」

このバイオインスパイアード・カメラの真の臨床的価値は、それが単一のモダリティ(例えば偏光のみ)で機能するのではなく、物理的に独立した2つの情報源(蛍光と偏光)を、外科医のニーズ(RGBカラー)と同時に提供する「マルチモーダル」能力にあります。

A. マルチモーダル・イメージング:2つの「目」を融合する

外科医は、このカメラシステムを通じて、リアルタイムで「組織の構造」と「分子の存在」を同時に見ることができます。

1. 蛍光チャンネル(分子情報:がん細胞の「存在」を特定):

このチャンネルは、がん細胞に特異的に結合するよう設計された「分子イメージングプローブ」(蛍光色素)を可視化します。これにより、「どこにがん細胞が存在するか」が分かります。

  • ICG (インドシアニングリーン): 米国食品医薬品局(FDA)によって広く承認されているNIR色素です。特定の腫瘍に結合するわけではありませんが、血管やリンパ管の造影に極めて有用です。がん手術においては、がんが最初に転移する「センチネルリンパ節(SLN)」を同定するために不可欠な薬剤となっています。
  • Pafolacianine (OTL38): 2021年にFDAに承認された新しいNIR色素です。これは、卵巣がんや肺がん、乳がんなど多くの固形がん細胞の表面に過剰発現している「葉酸受容体α(FRα)」を特異的に標的とします。

2. 偏光チャンネル(構造情報:がんの「浸潤性」を特定):

このチャンネルは、III章で詳述した、コラーゲンマトリックスの破壊度合い、すなわち「複屈折性の喪失」を可視化します。これは、「がん細胞が周囲の正常組織にどれだけ浸潤しているか」という悪性度の情報を提供します。

B. 臨床シナリオ:外科医は「何」を見るのか

グルエフ教授のチームが権威ある医学誌『Science Translational Medicine』に発表した論文では、このマルチモーダル・カメラの有効性が実証されています。

研究では、切除された ex vivo のヒト乳房腫瘍組織を用いて、カメラが微弱なNIR蛍光シグナルを正確に検出できることが示されました。

さらに重要なのは、このカメラの多波長(ヘキサクロマティック)能力が、複数の異なる蛍光色素(例えば、ICGとPafolacianine)を同時に使用した場合でも、それらのシグナルを正確に区別できることを示した点です。従来の標準的なNIRカメラは、ICGもPafolacianineも、同じような波長帯の「緑色(または白)の光」としてしか表示できず、その光が「リンパ節」から来ているのか「がん細胞」から来ているのかを区別できませんでした。

この能力差は、手術室での意思決定において、パラダイムシフトとも言える劇的な変化をもたらします。これは単なる「がんの検出」から、リアルタイムの「がんの特性評価」への飛躍です。

乳がんのセンチネルリンパ節(SLN)生検のシナリオを想定すると、外科医は以下の3層の情報を同時に、1つの画像として得ることができます。

  • 層1:ICG蛍光(例:青色で表示): 「ここにリンパ流マーカー(ICG)がある。これがセンチネルリンパ節(SLN)だ」。
  • 層2:Pafolacianine蛍光(例:赤色で表示): 「このSLNの内部に、葉酸受容体陽性のがん細胞(Pafolacianine)が存在する」。
  • 層3:偏光シグネチャ(例:テクスチャや疑似カラーで表示): 「そして、この『赤色のがん細胞』の周囲の組織構造は、コラーゲンが破壊され浸潤している(=低複屈折性)」あるいは「構造は保たれており、がんはリンパ節の被膜内に留まっている(=高複屈折性)」。

外科医は、「がんの存在」だけでなく、「がんの浸潤度(悪性度)」という、従来は手術が終了し、切除した標本を病理医が顕微鏡で評価(H&E染色)するまで分からなかった情報を、リアルタイムで手に入れることができます。これは、手術室にいながらにして病理診断の一部を行う「術中光学的生検(Intraoperative Optical Biopsy)」であり、より正確な切除と、より低侵襲な手術(例:不要なリンパ節郭清の回避)を実現する強力なツールとなります。

VI. 開発状況と未来展望:2024年の検証から次世代センサーへ

A. 2024年のマイルストーンと臨床試験

2024年9月1日に発行された『Photonics Focus』誌の記事は、この技術が基礎研究の段階を終え、本格的な臨床応用に向けたマイルストーンに到達したことを示しています。

このマイルストーンを裏付けるのが、現在進行中の重要な臨床試験、NCT06276439「Intraoperative Imaging of Lymph Nodes(リンパ節の術中イメージング)」です。

  • 実施主体 / 研究代表者: イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校(UIUC) / ヴィクター・グルエフ教授。
  • 目的: 乳がん患者から切除されたセンチネルリンパ節(SLN)における、がん転移の有無を、開発されたバイオインスパイアード・センサーを用いて検出する精度と信頼性を評価することです。
  • 使用技術: 本レポートで詳述した生物模倣センサー。
  • 手法: 手術で切除された ex vivo(生体外)のSLNを直ちにイメージングします。まず、ICGのNIR蛍光を用いてリンパ節の位置を特定します。続いて、UV(紫外線)光を照射し、がん組織に多く含まれる特定のアミノ酸が発する「自家蛍光(Autofluorescence)」を検出します。イメージング終了後、標本は病理医によって詳細に分析され、その「確定診断」とセンサーの診断結果が比較されます。
  • 現状: 2024年2月25日の最終更新時点で、48人の参加者を募集する臨床試験が進行中です。

B. AIの統合:2025年の画像処理の進化

この先進的なセンサーハードウェアの能力を最大限に引き出すため、ソフトウェア、特に人工知能(AI)による画像処理技術の開発も並行して進められています。

2025年3月に開催予定のSPIE(国際光工学会)で発表される研究では、グルエフ教授のチームが、この可視光-NIRセンサーから得られる複雑な生データの処理に、CNN(畳み込みニューラルネットワーク)を導入したことが報告されています。

DoFPセンサー(IV章参照)は、その原理上、隣り合うピクセルが異なる情報(異なる偏光角度や波長)を取得する「モザイク」センサーです。CNN(AI)を用いる目的は、このモザイク化された生データを、リアルタイムで「デモザイキング(Demosaicing)」し、高解像度でノイズが少なく、外科医が直感的に理解できるカラー/偏光画像へと瞬時に再構成することです。

C. 次世代の生物模倣:シャコから蝶、そしてペロブスカイトへ

シャコの視覚を模倣したカメラの臨床試験が進行する一方で、グルエフ教授の研究室はすでに「ポスト・シャコ」の次世代センサー開発に着手しています。これは、2025年7月10日に報じられた最新の動向からも明らかです。

  • 新しい材料: シリコン(CMOS)の物理的限界を超える新材料として、ペロブスカイト結晶(Perovskite Crystals)が注目されています。ペロブスカイトは、シリコンよりも高効率に光を電気信号に変換でき、かつ、吸収する光の波長帯(色)をナノレベルで精密にチューニングできる特性を持ちます。
  • 新しい生物: 次のインスピレーション源は、シャコ(偏光)ではなく、アゲハ蝶(Papilio)(紫外線)です。アゲハ蝶の目は、人間の目には見えない「UV(紫外線)のスペクトル(色合い)」を区別するために、積層型の受容体を進化させています。
  • 臨床応用: グルエフ教授と(共同研究者である)Shuming Nie教授のチームは、この蝶の目を模倣し、ペロブスカイト・ナノ結晶をCMOSセンサーに統合した、新しいUVスペクトルセンサーを開発しました。このセンサーは、臨床試験(NCT06276439)でも利用が試みられている「自家蛍光」、すなわち蛍光色素(ラベル)を一切使用せずに、がん細胞と正常細胞が発する固有のUV蛍光シグネチャの違いを読み取ることに成功しました。この「ラベルフリー」の技術により、99%の信頼性でがん細胞と正常細胞を区別できたと報告されています。

D. 結論的洞察:生物模倣は「ツールキット」である

本レポートで詳述した「シャコ・カメラ」の開発は、それ自体が画期的な医療機器の誕生であると同時に、より広範なイノベーション分野の「扉を開いた」重要な事例であると結論付けられます。

ジャスティン・マーシャル教授の好奇心に基づくシャコの基礎研究は、「生物の積層型・偏光センサー」という、工学的に極めて強力な設計思想を提供しました。ヴィクター・グルエフ教授の工学チームは、その設計思想をシリコンチップ上に翻訳し、臨床応用(NCT06276439)へとつなげました。

この成功は、「生物の視覚システムを模倣して、人間の感覚を超えた医療機器を創る」というアプローチ全体の有効性を強力に実証しました。

その結果、研究チームは現在、解決すべき次の医療課題(例:色素の使えない患者のためのラベルフリーのがん検出)に応じて、生物界の広範な「ツールキット」から最適なインスピレーション(例:蝶のUV視覚)を選び出し、それを最適な先端材料(例:ペロブスカイト)および最適な情報処理(例:AI)と自在に組み合わせる、という新しい開発フェーズに入っています。

したがって、シャコが人類にもたらしたのは単一のカメラではなく、「臨床生物模倣(Clinical Biomimetics)」という、生物学、工学、臨床医学が融合する、計り知れない可能性を秘めた新領域への招待状であると言えるでしょう。


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